「歯が生えてくる薬」を想像したことがあるか
虫歯で歯を失ったとき、「もう一度歯が生えてきたらいいのに」と思ったことがある人は少なくないだろう。実は人間の歯は哺乳類の中でも退化的であり、乳歯と永久歯の「2セット」しか生えない。しかし今、「第三の歯を生やす薬」の世界初の人体臨床試験が、日本で始まっている。これは夢物語ではなく、科学的根拠に基づいた現実の医療開発である。
2024年10月、京都大学病院でひとつの歴史的な医学実験が始まった。北野病院口腔外科の高橋克氏(Katsu Takahashi)らが率いるToregem BioPharma(京都大学発ベンチャー)が開発した薬物「TRG-035」の医師主導第Ⅰ相臨床試験である。対象は先天的に歯が欠如している(先天性無歯症)患者であり、この薬が人体に安全かどうかを確かめる最初の段階だ。研究チームは2030年頃の実用化を目標として掲げ、着実に歩みを進めている。

なぜ人間の歯は2セットしか生えないのか:USAG-1という「制動装置」
この研究の核心を理解するためには、まず「なぜ人間の歯は2セットしか生えないのか」という問いに答える必要がある。
高橋らによるPubMed掲載の原著論文(Takahashi et al., J Oral Biosci, 2024; PMID: 39389160)は、この謎の答えとなる分子「USAG-1(Uterine Sensitization Associated Gene-1、別名SOSTDC1)」に関する研究成果をまとめた。USAG-1とは、骨形成タンパク質(BMP)とWntというシグナル伝達経路を同時に抑制するタンパク質である。このBMP/Wntシグナルこそが歯胚(歯の芽)の発育を制御する根幹的な分子経路であり、USAG-1はいわば歯の成長を止める「制動装置」として働く。
高橋らの2024年レビューによれば、2007年の過去の研究においてUSAG-1遺伝子を欠損させたマウスが「通常より多くの歯を持つ」ことが示されている。つまり、USAG-1という制動装置を取り除けば、本来は発育を抑制されていた「潜在的な歯胚」が活性化されて歯が生えてくる可能性があるのだ。
その後、研究チームはUSAG-1を無力化する「抗USAG-1中和抗体」を開発した。この抗体をフェレット(先天性無歯症モデル)に投与したところ、失われていた歯が完全な機能を持つ歯として生えてきた。重篤な副作用も認められなかった。この動物実験の成果が「第三の歯を生やす薬」の概念実証(Proof of Concept)となり、2021年にScience Advances誌に掲載されて世界的な注目を集めた。
USAG-1の分子機序:なぜこのタンパク質が狙い目なのか
USAG-1が治療標的として優れている理由を、Morales-Calvillo らのレビュー(PMC, 2025; PMC12867463)が詳述している。USAG-1(SOSTDC1)はLRP5・DKK4・BMP2・BMP4・BMP7などの重要な分子制御ノードと交差しており、歯の発生において非常に上流に位置する制御因子である。単一のタンパク質を標的にすることで、複雑な歯胚発育カスケード全体を制御できる点が、USAG-1を魅力的な治療標的にしている。
さらに興味深いのは、ヒト歯肉の単一細胞RNA解析データと組み合わせることで、線維芽細胞・基底細胞などの特定細胞集団でのUSAG-1発現が明らかになってきた点だ。これは治療薬の投与対象細胞や投与方法の最適化に向けた重要な基盤情報となる。
「第三の歯」の研究が向かう先:全歯再生・歯髄再生・エナメル再生の三本柱
USAG-1抗体は「第三の歯を生やす」という一つのアプローチであるが、歯科再生医療全体の景色はさらに広い。Sui らによる北京大学の包括的レビュー(Cell Regeneration, 2025; PMID: 40742495)は、現在の歯の再生研究を「全歯再生・歯髄再生・エナメル再生」の三本柱で整理した。
歯髄再生は現在最も臨床化が進んでいる領域であり、すでにフェーズI/II臨床試験が実施されている。歯髄幹細胞(DPSC)を壊死した歯の根管内に移植することで、歯髄様組織の再生・再神経化・再血管化が動物実験・ヒト症例で確認されている。
全歯再生は動物モデルでは達成されているが、倫理的課題(特にiPS細胞・胚性幹細胞の使用)と機能的課題(咬合・歯根の適切な形成・骨との統合)が依然として残存している。Inoue らのレビュー(PMC, 2025; PMC11780712)は、single-cell RNA sequencingや空間トランスクリプトミクスという最新の分子生物学的手法が歯の発生メカニズムの解明を急速に進めており、「全歯再生が臨床的に可能になる時代が近づいている」と論じている。
エナメル再生は三本柱の中で最も困難な課題である。エナメル質は完全に分化した後は再生能を持つ細胞が消失するためである。しかし近年、歯原性細胞とハイドロゲル足場を組み合わせることで実験室内で歯様構造体の生成に成功したと報告する研究グループが現れており、材料科学との融合による突破口が生まれつつある。
歯科再生医療の「三要素」とiPS細胞の役割
歯の再生医療は基本的に「細胞(幹細胞)」「足場(スキャフォールド)」「シグナル分子(成長因子)」の三要素の組み合わせで成立する。この三要素の組み合わせを最適化する研究が世界中で進んでいる。
特に注目すべきはiPS細胞(人工多能性幹細胞)の活用である。iPS細胞は患者自身の細胞から作製できるため免疫拒絶のリスクが低く、倫理的問題も少ない。Sui ら(2025)の包括的レビューは、ヒトiPS細胞から歯上皮細胞・歯間葉細胞への分化誘導が確立され、GelMA・コラーゲン・ハイドロゲルなどのバイオマテリアルと組み合わせることでin vitroで歯・骨に類似した硬組織の形成が確認されていることを示した。
歯胚由来幹細胞(TGSC)の応用可能性を論じた最新PMC掲載レビュー(PMC12501481, 2025)は、Kitano病院・Toregem BioPharmaによるTRG-035臨床試験の開始を「歯胚細胞の再生ポテンシャルを臨床に橋渡しする重要なマイルストーン」として評価し、より広い歯科再生戦略との接続可能性を論じた。
現状の課題と正直なエビデンス評価
TRG-035の臨床試験は2024年に始まったばかりのフェーズIであり、現在確認されているのは「動物では安全に効果があった」「ヒトでの安全性を確認中」という段階である。以下の課題が今後の研究で解決される必要がある。
① 有効性の証明:動物での有効性がヒトにそのまま適用できるかどうかはまだ不明。ヒト歯胚の活性化・萌出・咬合機能の確立には複数の試験段階が必要。
② 対象年齢の拡大:現在の試験対象は先天性無歯症の限定的な患者群。将来的に後天的歯の喪失(う蝕・外傷・歯周病)への拡大適用には別途の試験が必要。
③ 費用・アクセス:生物学的製剤(モノクローナル抗体)は製造コストが高く、保険適用・価格設定が普及の鍵となる。
④ 長期安全性:BMP/Wnt経路への介入が腫瘍形成などの予期せぬ影響をもたらさないかの長期追跡が必要。
まとめ:「歯が生える薬」は現実に向かっている
「歯が生えてきたらいいのに」という人類の願いが、今まさに科学の力で現実に近づきつつある。USAG-1を標的とした世界初の臨床試験・歯髄再生の臨床実証・iPS細胞による歯組織形成・エナメル再生材料の開発という4つのフロントで、歯科再生医療は同時並行で進展している。今後の臨床試験の結果が、実用化の可否を左右すると考えられる。
「歯は一生もの」という言葉がある。しかし近い将来、「歯は再生できるもの」という言葉が常識になる時代が来るかもしれない。その扉は今まさに開きつつある。
※引用論文のPMIDおよび統計数値は情報提供を目的としており、実際の原著と異なる場合があります。医療上のご判断はかかりつけの歯科医師にご相談ください。
参考文献
- Takahashi K, Kiso H, Mihara E, et al. Development of a new antibody drug to treat congenital tooth agenesis. J Oral Biosci. 2024 Dec;66(4):1–9. PMID: 39389160
- Murashima-Suginami A, et al. Anti-USAG-1 therapy for tooth regeneration through enhanced BMP signalling. Sci Adv. 2021;7(7):eabf1798. doi: 10.1126/sciadv.abf1798. PMID: 33536325
- Morales-Calvillo G, et al. USAG-1 and Regenerative Dentistry, Therapeutic Implications and Future Directions: Review of the Literature. PMC. 2025; PMCID: PMC12867463
- Sui Y, Zhou Z, Zhang S, Cai Z. The comprehensive progress of tooth regeneration from tooth development to tissue engineering and clinical application. Cell Regeneration. 2025;14(1):33. PMID: 40742495
- Inoue T, et al. The next generation of regenerative dentistry: From tooth development biology to clinical setting. Regen Ther. 2025; PMCID: PMC11780712
- The rising potential of tooth germ-derived stem cells and the future of oral rehabilitation. PMC. 2025; PMCID: PMC12501481
- Ikeda E, et al. Regenerative Endodontics and Stem Cell-Based Therapies: A Systematic Review. Cells. 2025. doi: 10.3390/cells14060422
監修:髙橋弘樹(歯科医師・歯学博士)
